財団のあゆみ

はじめに

点字ブロックのJIS化実る — 誕生から完成まで34年 —

2001(平成13)年2月8日、(財)日本規格協会のホームページに「視覚障害者誘導用ブロック等の突起の形状・寸法及びその配列」の日本工業規格・JIS(案)が公開された。 この公開によるパブリックコメントを受けて、3月22日、「視覚障害者誘導用ブロックJIS原案作成委員会・第3回委員会」が開催され、一部修正のうえ、JIS案が最終的に決定された。私も当委員会の委員として末席に参加させていただいたことを光栄に思っている。この原案は工業標準化法に基づいて、日本工業標準調査会の審議を経て、日本工業規格として平成13年9月20日、経済産業大臣により制定され同日、官報公示された。
思い起こせば、記念すべき点字ブロック第1号が岡山市の国道2号線に敷設されたのが1967(昭和42)年3月。以来30余年は、その普及に専心した年月であった。その間に考案者、三宅精一は志半ばにして1982(昭和57)年、病に倒れ(享年57歳)、精一の友人として、また良き理解者であった(福)日本ライトハウス元理事長の岩橋英行氏も1984(昭和59)年に亡くなられるという無念の時を体験した。 そして21世紀を迎えたいま、その点字ブロックがJIS化に至ったことは実に感慨深いものがある。それは手塩にかけたわが子がようやく一人前になって世に認められ、30年余にして"成人式"を迎えるような思いである。私にとって点字ブロックのJIS化実現は、それほどの喜びであり同時に社会的にも意義深いものがあると思う。故三宅精一、故岩橋英行氏をはじめ草創期にこの道を拓いた方々をはじめ普及にご支援ご協力をいただいた多くの方々にあらためて感謝の念をささげたい。

1. 点字ブロック誕生の小さなドラマ

三宅精一と岩橋英行氏の出会い

点字ブロックの考案は、三宅精一と岩橋英行氏の運命的な出会いが大きく影響している。
精一は、1961(昭和36)年頃岡山市で自営業を営む傍ら町の発明家としても結構活躍していた。中でも交通問題に関しては、特に強い興味をもち、特許を得たものも多く、試作品は100種類を超えるほどののめりこみようであった。
精一は私の実兄であり、兄の元に身を寄せていた関係で、私はその兄の生き方に共感し、補佐役として協力を惜しまなかった。そして1962(昭和37)年から自然な流れで兄の仕事の世界に入った。
また精一と私は無類の動物好きで、多くの生き物を飼育していたのである。とくにセントバーナード犬に興味をもち、方々手を尽くして手に入れた雌雄一つがいからセントバーナードの仔犬が生まれた。このことを風のたよりに聞いて兵庫県西宮から岡山のわが家を訪ねてきた人がいた。これまた動物好きの岩橋英行氏の命を受けた訓練士の方だった。セントバーナード犬に仲介された精一と岩橋氏の出会いの伏線である。
その頃精一は、「交差点で白い杖を持った盲人が、車道を横断する姿に目を留めた時、横を車が勢いよく走り去った」という危険な場面に遭遇した。以後精一は、「盲人の安全歩行」の課題が日夜頭を占めるようになった。発明家精一の発想の連鎖から「点字ブロック」構想が浮かび上がったのである。1963(昭和38)〜1964年の頃である。
その折も折、岩橋氏は家族連れでセントバーナードのいるわが家をお訪ねになり、家族ぐるみのおつきあいが進んでいった。その岩橋氏こそ日本ライトハウスの理事長であった。岩橋氏は日本ライトハウスのことを語り、盲人のことを熱心に語る。すでに点字ブロック構想をあたためていた精一は、この運命的な知遇を得て、「点字ブロック」構想が一気に育っていくことになったのである。

「点字ブロック」と名づけ、生涯をかける。


精一の発想を形にする──。それは私の得意分野でもあった。建築会社勤務のキャリアを生かし、コンクリートブロックの表面に突起物を配列する。その形状・配列・数・寸法等の図面を書き、毎日のように話し合い、地元ユーザーの意見を聴くなど多種多様の試作を繰り返した。
考案したコンクリート片のネーミングを議論した。最終的には半球状突起(ドーム型)を7×7=49個の並列型(色はセメント色のままであった)に決定した。このことから点字をイメージした。「点字新聞」「点字教科書」「点字○○」と点字の字句を冠した呼称そのものは、すべて盲人を対象とされていることがすぐわかり、社会に対してアピールしやすいということから「点字ブロック」と名づけた。このネーミングは以後30余年の普及の過程で普通名詞のように使われるようになった。要を得たネーミングで、以後の普及に大きな力になったと思っている。
岩橋氏の影響を強く受けていた精一は、盲人の「人間としての自立」、そのための「単独安全歩行」のための安全誘導システムを日本全国へ展開しようという途方もない夢をふくらませるようになった。点字ブロックを日本の各都市・駅に敷きつめる、という壮大な夢に向かって歩みはじめた。精一は後半の人生をこの公益的な事業にかけよう、と決心したのである。兄精一と一心同体のように仕事を補佐していた私も同じ夢の道である。
1965(昭和40)年、自宅を開放して「安全交通試験研究センター」の看板をかかげ退路を断ってのスタートであった。

第1号敷設の感激

夢の実現の第一歩は、岡山県立岡山盲学校近くの国道2号線の横断歩道への敷設である。旧建設省岡山国道工事事務所等と交渉し、点字ブロック230枚を寄贈、敷設した。1967(昭和42)年3月、それは日本初、また世界初の記念すべきできごとであった。
その工事に先立ち、私たちは点字ブロックの一枚一枚に洗剤をつけタワシで水洗いして荷を整えた。冷たい水の感触に気持ちをひきしめ、身ぶるいするほどの興奮を覚えた。当時はフォークリフト等の機械設備もなく、一枚一枚を車上に積み込む。軍手の指先はすぐ穴があき、腰の痛さもまたたいへんであったことなどがまだ体の芯に残っている。
完工渡り初め式を目前にして私たちは感想をうかがうべく岩橋氏を現場へお迎えした。岩橋氏は未だ幼いご子息と共に来岡され、現場で何度も何度も歩行テストを頂いた。私はその時の感動的なシーンをいまも忘れることができない。

そしていよいよ完工渡り初め式である。盲学校の生徒たちと先生も立ち会って感触を確かめてもらった。当日、「盲人用の横断標識お目見え」のテレビ放送や翌日の新聞に「これでもう安心」「足で知る点字ブロック」の見出しが踊った。

世界の評価を得て

誕生間もない点字ブロックは、1967(昭和42)年世界盲人福祉協議会(WCWB)実行委員会に出席した岩橋氏により、点字ブロックの写真と資料で世界各国の専門家に紹介され、意見を求めた。
世界の国々には音響信号機はあったが、危険を知らせる誘導をかねた敷設物は存在しなかった。各国の専門家は大きな興味を示し、多くの方々から意見や賞賛の言葉をいただいた。岩橋氏はこの時の感想を「点字ブロック歩道」によせてと題して送ってくださった。私たちは、この一文を点字ブロックの手づくりパンフレットに掲載させてもらった。
『「点字ブロック」の登場……実に画期的な問題である。過去6回世界をまわって、こうした問題に正面からとりくんでいる国はない。「点字ブロック」を通し、盲人の交通安全がはかられ、守るという問題を通し、盲人への関心が社会に広まるならばそれだけ盲人の閉ざされた世界は広くなり、かべは取り去られてゆく……。
「あなたのランプの灯を、いま少し高くかかげて下さい。見えぬ人のゆく手を照らすために……」ヘレンケラー女史の言葉だが、この足をふみしめる「点字ブロック」の世界の出現で一つの輝きを増したように思うのは、あに、私一人の考えであろうか』
私たちは、世界の評価を得て、独りよがりではなかったことに安堵し、いよいよ自信と勇気をもって日本全国への敷設を!と決意を新たにしたのである。

普及行脚に苦節6年

世の中は甘くない。点字ブロックのPR資料を全国の福祉事務所や関係省庁等に発送し、あるいは点字ブロックの実物をもって土木部等関係先を歩きまわり、ひたすら点字ブロックの意義を説き普及活動に努めた。同時に、実績づくりのために地元岡山をはじめ京都、大阪、東京、仙台……など、各地に点字ブロックを贈呈し続けたのである。
しかし、いつまでたっても注文はおろか問い合わせの電話も鳴らない。夜おそくなると精一も私も弱気になる。
「もう止めようか、そろそろ資金も底をついたで」
この時は深い谷底をのぞく思いであった。既に点字ブロック考案から6年を経ていたのである。
いまにして思えば、その頃の日本は高度経済成長のまっ只中で、世界第2の経済大国にのし上がり自信に満ちていた。反面ちょっと立ち止まってふりかえり、足元を見る心の余裕はなかったのである。まして障害者に対して「同情」はするが、障害者を「理解」し、社会的に援助する考え方までには至らない時代であった。
日本の「福祉思想」の未成熟さは、夢に向かって進む私たちの決意の前に厚いバリアとして立ちふさがっていたのである。

2. 日本の"福祉元年"から

─ 思想のバリアフリー ─

1970(昭和45)年には日本万国博覧会が開催され、183日間で実に6400万人が入場。東京銀座に歩行者天国が誕生。Tシャツとジーンズが爆発的に流行した世の中。こうした高度経済成長の光の中にも影の部分があることに気づきはじめた。公害問題が深刻になり、環境へ目が向けられはじめた。1971(昭和46)年には環境庁が誕生している。
そして1972(昭和47)年、日本列島改造論を掲げる田中角栄首相が登場。不動産ブームの中で、光と影のコントラストをますます濃くしながら高度成長は頂点を迎えた。

旧国鉄「我孫子町」駅プラットフォームに第1号

こうした時代の空気の中にも小さな希望の灯が見えはじめた。1970(昭和45)年に大阪府立盲学校の教職員が、旧国鉄阪和線「我孫子町」駅に点字ブロックの敷設を!と点字書きの陳情書を送った。これに対して、国鉄が初めて点字ブロックを採用し、「我孫子町」駅プラットホームに点字ブロック(タイル)が敷設された。プラットホームの点字ブロック第1号となった。

東京都から全国へ「安全への想い」



1970(昭和45)年、東京都道路局安全施設課から「点字ブロック」を採用するとの電話が入った。高田馬場一帯は盲人施設が多く、交通安全上からその必要性を感じている。一万枚でも予算処置が可能とのことであった。東京都は同年10月、戸塚署の協力を得て、日本点字図書館、日本盲人福祉センター、東京ヘレンケラー協会など、視覚障害者関係の施設が多く集まっている高田馬場駅東側一帯を全国で初めて「交通安全モデル地区」に指定。点字ブロック敷設を中心に安全施設づくりを行ったのである。
都道府県レベルで東京都が先陣を切ったことになり、この流れは地方都市へと連鎖反応して広がっていった。この頃から点字ブロックは6×6=36個(ドーム型並列)に改良し、色は黄色に着色されていったのである。

身体障害者「福祉モデル都市」

1973(昭和48)年、厚生省は、身体障害者福祉モデル都市事業を制定。これを受けて各都道府県市町村等自治体が定める「福祉のまちづくり要綱」が作られた。その中の整備要項の一つとして盲人交通安全誘導システムが提示されている。これを機にその全国展開の気運が高まった。
当時の朝日新聞は社説で「身障者福祉モデル都市」への提言として福祉重視への発想の転換を訴えている。
「わが国の政治も経済も社会も、これまではどちらかというと健康な人、恵まれた人間、強い階層を基準にしてきた。だが、いまわれわれは、経済成長重点主義から福祉重視へと発想の転換が迫られている」(48.3.1 朝日社説)

石油ショックの年"福祉元年"に

1973(昭和48)年10月、石油産油国でつくっているOPECが緊急閣僚会議を開いて石油の供給削減、供給制限を決めた。安い石油依存で高度経済成長を続けていた日本は社会パニックを起こした。石油ショックである。トイレットペーパーの買い占めに象徴されるように日用必需品が不足するという不安から何でも買い漁る状態になった。物価は急騰し、政府は「石油緊急対策要項」を発表し、マイカーの自粛、エネルギーの節約など「総需要抑制政策」を打ち出した。高度経済成長に一気にブレーキがかかり、福祉型の低経済成長へという価値観の大転換が進んだ。その中で政府も福祉に目を向けた予算をつくるようになる。この年、昭和48年を日本の「福祉元年」に位置づけられる。皮肉にも、石油ショックが私たちにはまさに救いの神になったのである。

「財団法人安全交通試験研究センター」として発足


1973(昭和48)年を境にわたしたちの前に立ちふさがっていたカベに穴があいた。思想的なバリアフリー化が一気に進んだのである。そして1974年、旧建設省道路局企画課から「道路における盲人誘導システム」の研究協力依頼の連絡が入った。点字ブロックが専門家たちの研究対象になったのである。精一は、「10年たってやっと点字ブロックが市民権を得るに至った」と喜んだ。
これを受けて、研究委託機関としての法人格を整える必要性が生まれ、これまでの任意団体としての「安全交通試験研究センター」は、建設省に背を押される形で「財団法人安全交通試験研究センター」として社会に責任ある存在となるべく、1974年(昭和49.10.1)「福祉国家におけるシビルミニマム」をスローガンに掲げ点字ブロックの普及啓蒙事業を目的とする公益法人として再発足することになった。法人格化にあたって、精一は株式会社等の選択肢もあったが、公益性を重視し財団法人の道を選んだ。精一は、ここでも基本財産として私財を投入し財団の認可を得た。

3. 盲人誘導システム ─我が国最初の公的研究

─ 点字ブロック標準化への第一歩 ─Ⅰ. 道路関係の誘導システム研究委員会メンバーとして



財団法人安全交通試験センターは、建設省が提示した「道路における盲人誘導システム等に関する研究」の委員会メンバーとして調査研究に参加。(受託当時には任意団体であったために法人格を有する団体でないとまずいとのことで、受託団体として財団法人全日本交通安全協会を経由する形で実質的な研究を受けもつこととなった。)委員会の構成員は、警察庁、建設省、厚生省、盲人代表、指導者として建設省から数名が加わり、月1回調査研究討議を重ね、1975(昭和50)年3月に報告書が提出された。
研究報告書の中から、その意義について一部を抜粋して紹介しておく。
「本研究は建設省昭和49年度建設省技術研究補助金によるものであって、道路における盲人歩行誘導の実際を検討しつつ、その系統的・統一的手法と、これに使用する形状及び敷設方法等の技術的開発を考察することを試みたものである。
研究を進めるにあたり研究分野を「点字ブロック」の実験的開発研究と「盲人案内板」の実験的開発研究とに分けて行っている。前者に関しては財団法人安全交通試験センターが、後者に関してはアルトプラスチック社が担当したものである。」
・また研究目的について──
「道路における盲人の安全歩行を補助するための施設を設けるための研究は従来から行われており、今日までに特に点字ブロック等の開発実施によって大きな前進を見せてきた。しかし全体的にはまだ実用的応用の場も少なく、その施設に対する体系も確立されていない。本研究は、盲人の歩行行動の特性を考察しながら現在までに開発されている点字ブロックの研究とこれの改良・応用、さらにこれら形状・敷設方法の合理化をも含めて、盲人の安全歩行誘導のための施設の標準化を目的としたものである」
点字ブロックはこれまで突起の形状は「点」だけで考えられていたが、本研究で初めて「線」の形状が生まれ、「点」と「線」の組み合わせによる誘導システムが考えられるようになった。
・点字ブロックの現況について──
「わが国における盲人の交通安全対策は、昭和40年頃まではほとんど皆無といってよく一部施設などに試験的、実験的な誘導表示の施工例があるのみであった。
このような状況の中で、点字ブロックは盲人の残存機能である触感覚を利用して、交通の安全に役立てることを基調として考案、開発された。」
「この点字ブロックは開発以来今日(1974年時点)まで全国で数十万枚敷設され、盲人の歩行安全に大きな効果を果たしてきたが、利用度の高まりにつれて、敷設の方法、材質、突起の形状等について標準化への要望を高めた。
今後ますます敷設が進んでいくと思われるが、批判や要望を率直に受けとめ、盲人の誘導方法の総合的見地から再検討を行い、統一性と系統性を有する実用的なものへの開発的研究が期待されるところである」と、標準化への強い願いを述べている。

Ⅱ. 鉄道関係(旅客駅)の誘導システム

旧国鉄施設局は、1977(昭和52)年「身体障害者の利用を考慮した旅客設備設計資料集」を作成、報告している。その主旨として──
「近年、身体障害者の社会的生活領域を広げる努力が多くの分野で続けられている。国鉄においても、これまで個々の分野での配慮はなされてきたが、交通機関利用システムとしては統一された仕様がないまま実行されてきたのが実情であった。そこで1974(昭和49)年度より旅客駅における身障者設備の研究というテーマを取上げ、逐年成果を積みあげてきた」とある。
その中で、視覚障害者への配慮の項では、次のように系統的なシステムとしてまとめられている。
①空間認識のための情報システム②危険表示としての床舗装
③誘導表示としての床舗装等項目の中で警告、誘導システムとしての点字ブロック使用の仕様が示されている。

Ⅲ. 公共建物における誘導システム

旧建設省大臣官房官庁営繕部は、1981(昭和56)年「官庁営繕における身体障害者の利用を考慮した設計指針」を出している。
そのまえがきで、「建設省では身体障害者の利用に対する施設整備を1973(昭和48)年以来窓口業務のある官署に重点的に行ってきたが、それは主として肢体不自由者を対象にしたものであった。本年(1981年)は国際障害者年ということもあり、身体障害者に対する社会的関心が一層高まっており、従来見落とされがちであった視覚障害者や聴覚障害者への誘導や伝達方法を検討したことなど、新しい試みが含まれている。
障害者の"完全な参加と平等"が社会的に実現されようとしている時である。この機に種々の建物や都市の物的環境がいまいちど見直されることを心から願って止まない」と述べている。

模倣乱造に悲憤

点字ブロックが急速な普及をみる過程で、多種多様な類似品が出まわり始めて、信頼性のある点字ブロックの品質が求められる時代になった。上記学問的研究の必要性もそこにあった。これについて岩橋英行氏は著書「白浪に向いて」の中で指摘している。
「さて、世の中は実に見苦しいものである。精一が苦しみ、悩み、まさに破産寸前まで追い込まれた時は、誰ひとり点字ブロックに身を傾け、注目しようとはしなかった。それがこうして全国に普及し、主要都市に敷きつめられて、盲人の単独歩行と交通安全、社会参加への自立が叫ばれだすや、いかがわしい類似品が姿をあらわしはじめたのである。……利益追求のためならば、なりふりかまわず、という業者も出現した。たとえば突起物を千鳥に配列してみたり、健常者用に開発されたノンスリップを目的としたものを盲人用に流用するものが駅などに見られるようになった。発注する方は、いかなる経過により、これが作られたかは知らない。ましてこの点字ブロックが世界的背景をもち、盲人の人間宣言という確固たる哲学の延長上に生まれてきたゆえんも熟知しない。この誕生こそ「盲人たりと言えども人間である。人間である限り、自由なる行動と職業選択の自由がほしい」といったテーマに基き、世界の盲人関係者たちが衆知を集め検討し、これを凝縮して、精一と三郎によりつくられた36点の山を持つ点字ブロックこそが真に盲人の歩行を助ける唯一のものであることを、為政者も利用者も確認しておいてもらいたい」岩橋氏の言葉は私たちにとって胸のすくような訴えであった。
まさに売れない時代だから売れる時代の到来である。

志半ばにして倒れる

建設省の「道路における盲人の誘導システム」に関する研究委員会の中で精一は、主として「点字ブロック」の実験的開発研究分野に精力的に取り組み、これで「点字ブロック」は市民権を得る、という思いであった。持ち前の研究開発型の性格から精一は、全国にアンケートを実施するなど、盲人の交通安全対策に対するあらゆる情報を収集し、この委員会に研究発表という形で報告している。ここで点字ブロックが単に危険を知らせるものだけでなく「誘導」システムとして敷設する考え方を提示している。これは岩橋氏が、1967(昭和42)年、考案したばかりの点字ブロックの資料をもってヨーロッパを廻り、意見を聞いたとき各国の代表から指摘されたことであった。
しかし、精一の体はこの頃から危険信号を発していた。長年の過労から急性肝炎を発症。1976(昭和51)年9月慢性肝炎で岡山大学病院に入院した。私はほとんど毎日見舞いに行っては現況を報告し、また何かと相談をもちかけながら留守を守った。1982(昭和57)年7月、岡山大学の高度な治療のかいもなく私たちを遺して逝ってしまった。いよいよこれから世界へ向かって翔こう!という夢をもって逝ってしまった。
「思えば1961(昭和36)年セントバーナード犬を介して結ばれてから良き盲人の理解者となり、自立する盲人、前進する盲人のために可能な限り知恵をふりしぼって参加してくれたこの人にこうべを深く垂れ、安らかな眠りを祈らざるを得なかった」(岩橋英行・白浪に向いて)
研究開発の得意な事業家、そして公益に奉仕する精神をもつ思想家、動物好きのよき兄─私にとっては人間の生きざまを教えてくれた人であった。
その日から私は、悲しみを越えて兄精一の志を確実に発展させることが使命であると自分に言い聞かせた。

4. 「障害者福祉インフラ」整備本格化

精一が床についた1981(昭和56)年は、「完全なる社会参加と平等」のテーマを掲げる国際障害者年であった。この思想をベースに点字ブロックの考案・開発・普及に人生をかけた者にとって、世の中がやっと自分のあと押しをしてくれだした、と思ったにちがいない。そして財団の基盤も固まり、飛躍の節目となる年であった。その精一の想いを受け継いで私は1982(昭和57)年「財団法人安全交通試験研究センター」の2代目理事長として重責を担うことになった。
長い苦難の時代を乗り越えた兄の時代と比べて、福祉思想はしっかりと方向性を定め、その施策は力強く実施される気運が高まってきた。

点字ブロックの形状変遷─ 指針から法律への経過のなかで ─

福祉思想の進展に従って種々のガイドラインが示され、やがて「ハートビル法」に見られるように福祉インフラ整備は法の裏付けを得て充実される時代になった。その流れを点字ブロックの形状変遷を例にその考案当時からこの度のJIS化までの変化を表に整理してみた。

「交通バリアフリー法」施行

2000(平成12)年度「高齢者・身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(交通バリアフリー法)が施行された。1967(昭和42)年、岡山市の国道2号線に点字ブロック第1号を敷設して33年余、1973(昭和48)年、福祉元年といわれ、思想のバリアフリー化の流れが起こりはじめてから27年余、そして1981(昭和56)年の国際障害者年を経て上記のような各種福祉インフラのガイドラインが示されてから19年──。時代の階段を一歩一歩上がってきて、やっと障害者の移動に関する法律が生まれたのである。

自治体の「福祉のまちづくり」条例

「これまで日本では、交通バリアフリーに関した取り組みは、「福祉のまちづくり」の名のもとに自治体レベルを中心に進められてきた。1970年代の町田市や京都市の「福祉のまちづくり要綱」を先駆けとして、1981年の国際障害者年をきっかけに各自治体に要綱・指針が広がった。さらに1990年代に入ってからは、大阪府・兵庫県での制定を皮切りに各都道府県で『福祉のまちづくり条例』が制定されてきた。」(ノーマライゼーション 2000年11月号)
そして地元岡山県でも、2000年「岡山県福祉のまちづくり条例」を制定。2000年4月からソフト面を施行し、2001年4月からハード面を含む全面施行に入った。

5. 標準化の完成 点字ブロックJIS規格

財団法人安全交通試験研究センターの前理事長故三宅精一が1965(昭和40)年世界に先駆けて考案した点字ブロック。以来30数年間、第1号敷設の感激、普及活動の苦闘、福祉思想転換の追い風を得て、普及の波に乗る。そしていま、あらためて点字ブロックそのものの機能・品質が問われ、JIS化という信頼を求めての原点帰りである。


世界を視野に

こうして点字ブロックJIS化の実現によって、これまで積み重ねてきた歩みをふりかえる時、30数年を経て「点字ブロック」が真に世の中に責任をもつ機能、品質をもって役立つ機材として、"成人式"を迎えたと言えよう。
兄精一が早くから夢見ていた世界へはばたく力を得たことになる。兄と共にこの点字ブロックの誕生から成長を見てきた私にとって、兄が注入した点字ブロックの精神を世界に広げる努力を重ねていきたいと念願している。